由緒沿革

寒巌義尹禅師木像(圓通寺蔵)

秋葉権現を祀った秋葉社の地

 補陀山圓通寺は山号を羽休山、秋葉山ともいう。境内は宮簀媛命が夫の日本武尊より預った草薙剣を奉じて熱田神宮を造営された際、この神剣と一体になって火難より救い、中部地方の平定を助けた秋葉権現を祀った「秋葉社」の地にあたる。

 この霊地に一小宇があった。白鳳年間(六七三〜六八五)には加賀の白山神社を開いた泰澄大師が錫を留め、自ら十一面観音を造作した。次いで、弘仁二年 (八一一)に弘法大師空海が熱田神宮に参籠された折、やはり自彫の十一面観音を奉納安置して.寺を創建した。これが圓通寺の始りである。

法嗣誓海義本を開山に迎え、曹洞宗として再興

 観音像を安置した堂宇は老松の下にあったため、世に「松下の観音」と呼ばれていたが、永享十年 (一四二八)に熱田神宮祝詞師田島仲宗の懇請により、寒巌義尹禅師より五代の法嗣誓海義本を開山に迎え、曹洞宗として再興された。山号は松露山と称した。なお、再興年次については明徳二年 (一三九一)、嘉吉年中(一四四一〜四三)、宝徳年中(一四四九〜五一)の説もある。誓海について秋葉三尺坊が修行したとも伝えられており、文明元年(一四六九)には大明禅師の諡号を受けた。

 二世明谷義光は熱田神宮大宮司千秋家の出身で、常安寺(豊場)、法持寺(白鳥)、福重寺(白鳥)を創建しており、文明十四年(一四八二)十月十二日に示寂した。明谷はその他多くの寺院からも開山に勧請されており、門流発展の礎を築いた。なお、誓海と明谷は自ら三尺坊を彫っており、現在も神殿に祀られている。

明谷の遺言による末寺からの輪住時代

 明谷の示寂した後、当寺の運営は末寺からの輪住制をとった。それは明谷の遺言ともいわれている。最初に明谷の一番弟子であった悟峰宗得(常安寺二世)が就き、その後は維玄義中(法持寺二世)、徳中義雲(福垂寺二世)ら明谷の開いた三ヵ寺の住持が交代で輪住した。輪住期間は一年とは限らず、二年、三年、四年の人もいたようである。
 圓通寺の輪住は、十三門派によって運営される本寺普済寺(浜松)の輪住にも当たった。『普済寺前住牒』によれば、大永二年(一五二二)に南齢牛誉(四世)、天文五年(一五三六)に天海孤舟 (五世)、天文十六年(一五四七)には同じく天海が再住していることを記している。ところが、「円通現住記及末山略考」(圓通寺蔵)による南齢牛誉、天海孤舟の存命年次及び圓通寺住持期間とはまったく異なっており、同名異人となってしまう。おそらく『普済寺前住牒』の記入誤りかと思われる。

 輪住時代については今後解明していかなければならないが、その間に諸堂は烏有に帰した。そのため正保二年(一六四五)、あるいは同四年(一六四七)、慶安四年(一六五一)の説もあるが、開基家の末孫田島仲秀が官衙に訴え、無能秀榎を常在する山主(独住)に請して草創期の盛挙に復興しようとした。しかし、残念ながら無能は承応三年(一六五四)四月二十六日に示寂したため、復興はできなかった。その後は了然(世代に人らず)、天海孤舟(五世)独運聞瑞(世代に人らず)、南齢牛誉(四世)、玉葉耕雲(六世)、栄室存盛(七世)、碧峰儀春(八世)と続き、住持期間は短いが、現在の歴任世代にみえない人、現在の世代順序と異なっている人もみえる。

開山及び歴代住服の卵塔

興倫元苗と龍重旭泉による伽藍の復興

 宝永元年(一七〇四)六月十二日、衆の請を受けて九世興倫元苗が進院した。当時は仏殿、庫院、陽谷軒、瑞用軒の塔頭のみで朽廃していたため、同五年(一七〇八)夏に開基家の田島仲頼(仲秀の子)や信従の頼母子講などから援助を受け、七月より工事を始めて、仏殿、方丈、庫院、客殿などを復興した。さらに十六世龍重旭泉は、宝暦七年(一七五七)十二月に住持すると、殿堂の修補とともに御影堂、鐘樓堂、庫院、秋葉堂、衆寮などを新築した。また、達磨大師木像、大権菩薩木像も修理しており、開山誓海義本の位牌を再興した。旭泉は普済寺に三度輪住しており、寛政元年(一七八九)九月に退董するまでの三十三年間住職を務めた。そのため中興号を贈られている。

 このように興倫元苗と龍重旭泉によって伽藍は復興され、独住による運営がなされるようになった。それ以来、享保十年 (一七二五) には十一世安山観隆が普済寺へ輪住しており、元文二年 (一七三七) には十三世寒国宏道、寛延二年 (一七四九)には十四世活水昇龍、宝暦十二年(一七六二)、安永三年 (一七七四)、天明七年 (一七八七) には十六世龍重旭泉、寛政十一年 (一七九九) には十八世祖庭柏苗、文化九年 (一八一二)、文政七年(一八二四) には十九世金重透鱗、天保八年(一八三七)には二十世伝宗透禅、嘉永二年 (一八四九) には二十二世勇進大猛、文久二年 (一八六二) には二十三世英州俊瑞が輸住した。このように伽藍復興後の普済寺輪住は、すべて圓通寺独住が務めているのである。
 明治五年五月、大本山永平寺より常恒会の免牘を受け格式高き寺となった。当時の住持二十四世透宗達関は外典や詩偈に通じた人で、威儀は厳然としており、豪気な名衲といわれた。同二十年三月二十九日に、鬼頭ラッパの学枚で知られた第九高等小学校が開校され、圓通寺の籠堂が教室となった。しかし、同二十四年十月の濃尾地震で本堂、神殿などの諸堂が全半壊したため、小学校は近くの本遠寺へ移った。

戦災による焼失、そして昭和の大復興

 明治二十四年十一月、畔上楳仙管長の特選によって二十六世信叟仙受が住職した。仙受は同二十九年十二月に曹洞宗認可僧堂を開設し雲衲教育を行った。翌年七月には小松宮彰仁親王より「秋葉出現道場」 の揮毫大額を受け、境内全図を印施するなど秋葉出現道場としての圓通寺を世に知らしめた。弟子の二十七世鉞巌仙雄は、明治四十年六月に十二間の本堂を再建し、昭和三年四月十五日には曹洞宗専門僧堂の指定を受けて多くの雲衲を打出した。曹洞宗台湾布教師、曹洞宗大学林総監、曹洞宗特選議員などの公職にも就いており、再中興の号を贈られた。
 戦時中には兵士の駐屯地にもなっていたが、昭和二十年五月十七日に戦災を被り、弁天堂と疎開してあった御神体、秋葉権現像、仏像を残して全山を焼失した。戦後まもなく仮本堂、庫裡を建立し、同三十年十月には、三十世祖岳喜参が神殿の再建を発願して同三十二年十月に完成させた。その後、同四十一年に三十二世住職に就いた仙巌一雄は、大黒天堂や奥の院毘沙門天堂などの諸堂を建立するとともに、同六十年四月二十一日には鉄筋コンクリート二階建、入り母屋造りで、一階は大広間、二階は本堂の新本堂を完成し落慶法要を営んだ。これによって昭和の大復興が成ったのである。このように圓通寺は、尾張の寒巌派の本山といえる寺院で、江戸期には約八十ヵ寺の末寺を数えるまでに門流が発展した。また、日本最古の秋葉大権現出現の霊場として、尾張秋葉山といわれ、庶民信仰を集め多くの参詣者で賑わっている。

昭和8年秋 陸鉞巌の円通道友会